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臓器移植法改正に ②

臓器移植法A案が、衆議院で可決された。脳死は一律に人の死、という考えに基づいている案。長期脳死の子供たちの存在は、無視された。

前にも書いたが、ママは何度もハルハルを失っている。13トリソミーとわかったときに、健康なハルハルを。低酸素脳症になってしまったときに、呼吸や動くことができるハルハルを。そのたびに、ハルハルの強い生命力や、周囲のあたたかい励ましや助けのおかげで、前を向いて来られた。願いはただひとつ。頑張っているハルハルの生命を、出来るだけ楽しく気持ちよく、愛情いっぱいに全うさせてあげたい。よもやその前に、法律に、死んでいるといわれることになるとは。。またママは、ハルハルを救えないの。。?

ハルハルは教えてくれた。明日が来ることは、決して当然ではないことを、だから今日がどんなに大切かを。そんな懸命に生きるハルハルや、似たような病気・状態の子供たちに投げかけられる言葉は、時に厳しい。「通常短命な命だから、治療はしない方針」「生きられる子のためにベッドを使いたい」「臓器を待ってる人たちのために、提供しなくても、成長してても、死んだことになって」。。 無理は言っていなくても、何も悪いことをしていなくても、最も基本の生きる権利すら、平等には与えられない。こどもたちは皆、生きるために、愛されるために、生まれてきて、あきらめずに頑張っていることに変わりはないのに。。

ハルハルが自分より長く生きられないだろうとわかって、とても悲しかったけれど、不幸だと感じることはなくて、むしろ一生で最も幸せな時間だとさえ思う。障害は、不便なことはあっても、不幸ではない。けれど、不幸にさせられることはあるんだと、思い知らされることがある。ハルハルが生まれる前に、必要な場合に呼吸器をつけるか、医師に問われたことがある。その理由は、それによって命がつながることで、両親が辛いと思う事があるかもしれないから、だった。こう言いたかったのかもしれない。こういう弱い立場にいる命は、普通なら当然のことが認められなくて、辛い悲しい思いをすることがあるよ、と。。それでも、その医師と病院は、押し付けることなく、突き放すことなく、私たち両親の希望を時間をかけてきき、尊重してくれた。何よりも、ありがたかった。

<絶望=苦悩-意味>、なのだそうだ。ハルハルにまつわる全てのことに、深い意味があると思っている。だから、どんな苦悩も、絶望ではない。

脳死判定は受けません(というか、A案提案者は長期脳死児は存在しないと言っているので、2年近くこの状態のハルハルは、受けるまでもなく脳死ではないことになるはず、ね)。最期の時に、この抱っこして「よく頑張ったね、一緒にいるから安心してね」と言えないようなことは、ママにはできません。

ハルハル、何も心配しなくていいよ。何があっても、パパとママが、ハルハルを守るよ。ハルハルが生きたいだけ生きられるように、何もわがままを言わない、いい子のハルハルの、たった一つの望みが叶えられるように。

007_3ハルハルは、今日もいい顔色をして、あたたかい肌をして、眠っていた。心なしか、表情が少し悲しそうにみえた。(この大人なお洋服が、パパからの今月のプレゼントです

街は、何事もなかったかのように、動いていた。テレビは、相変わらず騒がしかった。

今日も、移植推進派からの、提供者側への敬意や配慮のある言葉は、ほとんどき かれなかった。けれど、臓器提供者の家族の苦しみが最小限になるような制度設計だけは、どうか達成して欲しい。提供者の納得がなければ、法律だけでは、悲しみが増えるだけで、進まない。参議院では、どうなるのだろう。。

すみません、愚痴っちゃいました。どうぞ皆さま、これからも、変わりなく、よろしくお願いします。

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臓器移植法改正に

この件については、何度も何度もブログにも書こうとして、いくつもの下書きを途中まで書いては捨ててきた。でも、眠り姫のハルハルのママとして、感じている事に全く触れないのも不自然な気がして、採決直前になってしまったが、今までの気持ちをまとめてみることにした。

今年のはじめに、ある論文を読んで小児の脳死移植に関する流れの変化を感じて以来、関連するテレビや新聞の特集や報道に触れるたびに、胸が苦しくなり、ひどく落ち込んだ。ハルハルを守りたいのはもちろんだけど、それだけじゃない、複雑な気持ち。なんだろう。。

はじめは、臓器提供を待つ子に多くの焦点があてられていて、提供する対象となる子供たち、特に長期脳死について、触れられることすらない、バランスの悪い報道についての憤りだったと思う。どの子もみんな、一生懸命生きているのに。。一方で、親の、1年後にはなすすべもなく子供を失っているかもしれない辛さも、出来ることは全てしたい気持ちも、自分の経験から、痛いほどわかる気がした。

改正案の内容が報道されるようになって、脳死は一律に人の死、とする案を知ったときには大ショックを受けた。ハルハルも、正式な判定を受けて脳死と判断されたら、死んだことになっちゃうの??ハルハルを隠さなくちゃ、先生に判定しないよう、変わりなく医療が受けられるよう、お願いしなくちゃ。。最近になって、法的判定を受けることを拒否すれば同じ医療が受けられると明言されていたけれど、推進派の中でも違うコメントする人がいたり、未だに間違った理解に基づく報道があったりと、とても混乱したままで、医療現場への影響がとても不安。。

その後、討論番組や委員会審議などを通じて、各案の詳しい主張や議論を聞いた。驚き凹んだのは、長期脳死の子の存在自体を否定したり、もとに戻ることはないから脳死は一律に人の死としていいという発言。小児への脳死判定基準と判定能力の不十分さを改めて感じ、また、根底の考え方は、他の重症の子供たちの生き難さにもつながらないか心配になった。動けなくても表現できなくても、多くの人に感動や出会いや勇気を与えている、どの子もとても価値のある命なのに。。

その他にも、渡航移植や家族の承認の問題など、気になった論点を書き始めればきりがないけど、世論調査結果と移植件数の乖離や心停止後の移植数等の十分な分析もなく、今までの脳死移植事例の手続きの検証も追いついてないなど、知れば知るほど不安になって、拙速に法改定だけをしてもどれだけ有効なのか、とても疑問に思ってしまった。

この件に触れるたびに胸が苦しくなったのは、やっぱり、どの子も同じたったひとつの大切な命なのに平等に扱われていないように感じたり、敬意が感じられない強引な言葉を聞いたり、対立軸で描かれたりすることが、たまらなかったのかな、と思う。移植を受ける人と提供する人があって初めて成り立つ臓器移植をもし進めるのであれば、両者の関係は対立であるべきじゃなくて、個々の信念や希望を尊重し、互いに思いをはせる気持ちや、救急医療や脳死判定への高い信頼と、家族が納得して決断できる環境が整えられることとかが、重要な気がするのだけれど。。

子供を失うことは、人生最悪の喪失といわれるほど、親の心に大きな衝撃を与える。後悔の念が全く消えることはないかもしれないけれど、そのときにどういう経験をしたかで、その後の人生への向き合い方に大きな違いがでることもあると思う。例えば、臓器提供者の家族や長期脳死児の家族、移植経験者や移植を待つ子供の親、そんな人たちが集まって話し合い、お互いの気持ちを思いやりあえたら、本当に何がなされていくべきなのか、みえてくるということはないかな。。

そんな‘北風と太陽‘みたいな話は、ただの理想論だと言われてしまうのかな。。

街頭インタビューに答える人たちをテレビでみて、「ちゃんと考えなくちゃダメだよ~」と口走ると、「仕方ないよ、今まで自分たちもそうだったんだから」とパパに諭される。委員会審議の発言や各議員のHPを見て、個々の姿勢や考え方の違いを明らかに感じ、次回の選挙はまじめに調べて選ばないといけないな、と反省する。この時期にハルハルを授かったからこそ、経験できたこと、教えてもらった大切なことが、またたくさん増えた。きっと偶然じゃないね。大事にしていくよ、ありがとう。。 

004 パパとママとハルハル、たくさんの人に見守られて、安心して一緒に揺られているよ。ずっと続くといいね。。ステキなカードをいただきました

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